最盛期には140町を超える広大な土地を所有
戦前の日本には、今からでは想像がつかないほど大規模な大地主の一族が全国各地に点在していた。そのほとんどは戦後の農地改革によって解体されてしまったが、足跡を辿ることはできる。今回は宮城県も氏家家について紹介する。
氏家家は宮城県の南部、角田市で繁栄した一族だ。隆盛に導いた人物として、二代目丈吉氏が挙げられる。
丈吉氏は1866年10月、山形県の富樫六右衛門の次男として生まれた。当初は吉郎という名前だったが、1888年に七十七銀行の頭取にして大地主としても知られる氏家清吉氏の分家である初代・丈吉氏の養子となり、1906年に家督を相続して丈吉を襲名した。本家の清吉氏については、また別の機会に改めて紹介したい。
初代丈吉氏が分家した当初は、その邸宅は間口5間ほどで、商家としてはごく一般的な規模だった。しかし、大正時代になると蚕卵紙の需要が伸びて大きな財を築き、邸宅は間口20間の非常に大きな規模にものに造り替えられた。新座敷、奥座敷、米蔵等は二代目の頃に立てられたとされる。
ちなみに大邸宅は昭和60年に角田市が譲り受け、現在は「角田市郷土資料館」として運営されている。表門はかつて存在した角田城の城門が移築されたもので、城好きは一度見ておくことをお勧めする。本宅も当時の隆盛ぶりを伺い知ることができる豪華な造りになっている。
話を戻す。商いで財を成した二代目丈吉氏は広大な田畑も所有していた。資料には「伊具郡内に59町6反521歩」とあり、角田の大地主13人中4番目の規模を誇っていたという。1町は約1万平方メートル、3000坪なので、約18万坪の土地を所有していたことになる。東京ドームに換算すると、約12個分に相当する。当然、それだけ儲かっていれば納めていた税金も桁違いだ。角田の所得番付で1位になるほど儲かっていたこともあり、明治26年の町税納税額は本家清吉氏に次いで2位だったそうだ。
丈吉氏は事業家として活躍する一方、角田町会議員や郡会議員なども務めた。さらに角田製氷の社長職なども歴任し、名実とともに角田を代表する大富豪へと成長していった。昭和8年には宮城県内で16番目の多額納税者となり、氏家本家、加川家とならび、「角田町三富豪」の一つに数えられた。三富豪のうち2つが氏家家というのだからなんともすごいことだ。
二代目丈吉氏の正確な没年は不明だ。だが、明治27年に生まれた息子が三代目を襲名したのが昭和17年であること、またそれが父の死を機にと伝えられていることから、おそらくその直前になくなったのだろうと想像される。享年76歳前後というのは、当時としては長生きだったといえる。
三代目丈吉氏の代まで所有地は増え続け、戦時中にはその規模は140町9反104歩に達していた。明治から昭和初期にかけて、倍以上の規模に成長したことになる。それほどまでに当時の氏家家にはものすごい勢いがあったということだ。しかし、終戦後の農地改革で所有地の大半を手放した。氏家家は大地主として一つの区切りを打った。
日本の大地主は戦後の農地改革によってほとんどがその姿を消してしまった。特筆すべき功績や当時の邸宅跡が残っている家だけが、かろうじて今もその足跡をたどることができるが、それはほんの一部に過ぎない。今回は宮城県南部を代表する氏家家の分家、丈吉氏について取り上げた。今後も全国に存在したかつての大地主について取り上げていく。
戦前の日本には、今からでは想像がつかないほど大規模な大地主の一族が全国各地に点在していた。そのほとんどは戦後の農地改革によって解体されてしまったが、足跡を辿ることはできる。今回は宮城県も氏家家について紹介する。
氏家家は宮城県の南部、角田市で繁栄した一族だ。隆盛に導いた人物として、二代目丈吉氏が挙げられる。
丈吉氏は1866年10月、山形県の富樫六右衛門の次男として生まれた。当初は吉郎という名前だったが、1888年に七十七銀行の頭取にして大地主としても知られる氏家清吉氏の分家である初代・丈吉氏の養子となり、1906年に家督を相続して丈吉を襲名した。本家の清吉氏については、また別の機会に改めて紹介したい。
初代丈吉氏が分家した当初は、その邸宅は間口5間ほどで、商家としてはごく一般的な規模だった。しかし、大正時代になると蚕卵紙の需要が伸びて大きな財を築き、邸宅は間口20間の非常に大きな規模にものに造り替えられた。新座敷、奥座敷、米蔵等は二代目の頃に立てられたとされる。
ちなみに大邸宅は昭和60年に角田市が譲り受け、現在は「角田市郷土資料館」として運営されている。表門はかつて存在した角田城の城門が移築されたもので、城好きは一度見ておくことをお勧めする。本宅も当時の隆盛ぶりを伺い知ることができる豪華な造りになっている。
話を戻す。商いで財を成した二代目丈吉氏は広大な田畑も所有していた。資料には「伊具郡内に59町6反521歩」とあり、角田の大地主13人中4番目の規模を誇っていたという。1町は約1万平方メートル、3000坪なので、約18万坪の土地を所有していたことになる。東京ドームに換算すると、約12個分に相当する。当然、それだけ儲かっていれば納めていた税金も桁違いだ。角田の所得番付で1位になるほど儲かっていたこともあり、明治26年の町税納税額は本家清吉氏に次いで2位だったそうだ。
丈吉氏は事業家として活躍する一方、角田町会議員や郡会議員なども務めた。さらに角田製氷の社長職なども歴任し、名実とともに角田を代表する大富豪へと成長していった。昭和8年には宮城県内で16番目の多額納税者となり、氏家本家、加川家とならび、「角田町三富豪」の一つに数えられた。三富豪のうち2つが氏家家というのだからなんともすごいことだ。
二代目丈吉氏の正確な没年は不明だ。だが、明治27年に生まれた息子が三代目を襲名したのが昭和17年であること、またそれが父の死を機にと伝えられていることから、おそらくその直前になくなったのだろうと想像される。享年76歳前後というのは、当時としては長生きだったといえる。
三代目丈吉氏の代まで所有地は増え続け、戦時中にはその規模は140町9反104歩に達していた。明治から昭和初期にかけて、倍以上の規模に成長したことになる。それほどまでに当時の氏家家にはものすごい勢いがあったということだ。しかし、終戦後の農地改革で所有地の大半を手放した。氏家家は大地主として一つの区切りを打った。
日本の大地主は戦後の農地改革によってほとんどがその姿を消してしまった。特筆すべき功績や当時の邸宅跡が残っている家だけが、かろうじて今もその足跡をたどることができるが、それはほんの一部に過ぎない。今回は宮城県南部を代表する氏家家の分家、丈吉氏について取り上げた。今後も全国に存在したかつての大地主について取り上げていく。