真説賃貸業界史 第54回「地域農業が抱える問題の解決に尽力した本郷家」|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2023.05.22

真説賃貸業界史 第54回「地域農業が抱える問題の解決に尽力した本郷家」

真説賃貸業界史 第54回「地域農業が抱える問題の解決に尽力した本郷家」
大正期には345ヘクタールの土地を所有

 江戸から昭和初期にかけての日本には、現代では想像もできないほど広大な土地を所有していた大地主が全国各地に点在していた。その多くは戦後の農地改革で土地を手放し、表舞台から姿を消してしまったが、中にはかつての名家として歴史に名を残す家もある。今回は秋田県屈指の大地主として歴史に名を残す本郷家について取り上げる。

 秋田県を代表する大地主としては、以前「東北三大地主」を紹介した際に、大仙市の「池田家」を取り上げた。同家が所有していたとされる土地の広さは耕地1054ヘクタールで、東京ドームに換算すると225個分にもあったという。詳しくは「住生活新聞DIGITAL」2020年11月号を参照にしてもらいたい。
 今回取り上げる本郷家もそれに次ぐ規模の土地を所有していたとされる大地主だ。資料によると、大正13年(1924年)時点で本郷家は、345ヘクタールの農地を所有していたという。本郷家の歴史についてみていく。
 本郷家は江戸時代の元禄期(18世紀初頭)に、庄兵衛を始祖として、現在の横手市付近(前郷村本郷)に興ったとされる。享保期(18世紀前期)、庄兵衛は能登屋市兵衛に奉公。その働きぶりは高く評価され、現在地の辺りで独立し吉右衛門を名乗ったという。
 「本郷家」を名乗るようになったのは2代目の頃で、これは吉右衛門の出身地にちなんだからだそうだ。「吉右衛門」の名は代々受け継がれ、7代目まで世襲された。
 同家が大きく成長したのは3代目吉右衛門(宝暦2年~文化8年)の頃で、角間川一帯で商いを大きくする一方で、天明期頃(18世紀後半)から耕地を集約して地主化していった。
 本郷家が事業で大きな成功を納めたというだけなら、歴史に名を残すことはなかったかもしれない。現代までにその名が伝わっているのは、同家が地域の農業や経済の発展にも尽力したからに他ならない。明治期の秋田県では、春3~4月になると収穫枚の4割程度が腐敗して柳の芽のように黄色く変色する腐米に悩まされていた。その発生頻度は高く、10年のうち7、8年にも及んだという。本郷家はこの「秋田の腐れ米」と言われる問題の改善に取り組み、6代吉右衛門のときには秋田改良社の設立や、雄物川通線貨物保険の運営に尽力したと伝えられる。
 だが、1905年に奥羽本線が開通したことで雄物川の舟運が衰退。この頃を境に同家の繁栄にも徐々に陰りが見え始めた。江戸、明治、大正を通して一時代を築いた本郷家だが、戦後の農地改革で所有地のほとんどを失い、大地主としての歴史は幕を閉じた。
 本郷家の当時の繁栄ぶりを今に伝えるものとしては、「旧本郷家住宅」が大仙市角間川町に残されている。同住宅の主屋は1900年に建築。木造平屋に一部が2階建てという造りで、広さは396㎡。他に文庫蔵、洋館、味噌蔵があり、4件は秋田県の歴史を語る上でなくてはならない文化財だとして、国の有形文化財に登録されている。2017年3月に9代当主が文化財登録建築物と敷地を大仙市に寄贈したことから、現在は同市によって管理されている。
 ちなみに冒頭でも紹介した池田家と今回の本郷家に、辻家を加えた三家は「秋田縣管内大地主名鑑」で「秋田三大大地主」として記されているそうだ。また、旧本郷家住宅に隣接地に居を構えていた北島家、荒川家もかつては近代を代表する大地主だったそうだ。
 本稿では次号以降も、引き続き全国に点在したかつての大地主を取り上げていく。