真説賃貸業界史 第54回「私財を投じて村の発展に尽力した愛知の名士」|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2023.04.24

真説賃貸業界史 第54回「私財を投じて村の発展に尽力した愛知の名士」

真説賃貸業界史 第54回「私財を投じて村の発展に尽力した愛知の名士」
銀行や鉄道会社の設立にも心血を注ぐ

 戦前の日本には、今からでは想像がつかない規模の土地を有した“大地主”が全国各地に点在していた。しかし、それらの多くは戦後の農地改革によって土地を失い、いつしか表舞台から消えてしまったが、中には歴史に名を残す名家もある。今回は愛知県の大地主を取り上げる。

 愛知県を代表する大地主としてまず取り上げたいのが青樹家だ。青樹家は海西郡東条村(現愛西市東条町)を地盤とした大農家で、江戸後期から大正にかけて最盛期を迎えた一族だ。
 その青樹家で歴史に燦然とその名を残すのが青樹英二氏だ。英二氏は1843年(
天保4年)に、美濃国安八郡四郷村(現岐阜県安八郡輪之内町)の庄屋、片野万右衛門の次男として、この世に生を受けた。家督は長男が継ぎ、それ以外の子は養子に出るのが当たり前の時代、英二氏も28歳のとき、海西郡東条村の大農家・青樹家の婿養子となり、姓を青樹に改めた。
 英二氏の名が世に知られるようになったのは、私財をなげうって村の発展に尽力したからだ。例えば、米の生産を高めるために海を埋め立てる干拓事業を推進し、4年がかりでこれを成功させた。投じた私財は当時の額で1万7000円にのぼったとされる。後に県議会の議員となった際には、水害の調査を行い、県に対して早急に対策することを働きかけた。とにかく地域振興への意識が高かったようだ。
 また、英二氏は実業家としてもすぐれた手腕を発揮した。例えば1894年には、一大木綿生産地でありながら、明治以降、大阪方面から移入してきた機械製綿糸に押されて衰退しつつあった紡績業を立て直すために津島紡績を設立。これは見事に成功し、津島地域の紡績業はたちまち活気を取り戻したという。
 この時期、英二氏は地域産業の振興に欠かせない銀行の設立にも奔走。発起人として尽力し、同年5月に海島銀行が設立されると監査役に就任。さらに翌年9月に設立された海島貯蓄銀行の監査役も務めた。英二氏は地域のリーダーとして、その存在感を高めていった。
 英二氏がさらにすごいのは、多忙を極めたであろう中、地域のインフラ整備にも目を向けていたことだ。1890年代当時、青樹家の地盤である海西郡の中心、津島地域中央部は、三重県と愛知県を結ぶ関西鉄道が津島地域南部の弥冨を追加していた関係で、鉄道経路から外れていた。そのため名古屋へのアクセスが非常に悪く、「僻遠の地」とされていた。また、同地域は木曽川と佐屋川が横断していた関係で道路幅が狭く、なにかと不便だった。英二氏はこの地理的悪条件を憂い、既知の資産家と協力して尾西鉄道を設立。英二氏は初代社長に就任し、津島地域の鉄道開発に尽力した。結果、津島地地域の物流条件は飛躍的に向上し、地域経済は大いに発展した。余談ではあるが、尾西鉄道はその後、1925年に名古屋鉄道に譲渡され、現在は尾西線として運用されている。
 青樹家が実際にどのくらいの広さの土地を有していたのかは、詳しい記録が残されていないため不明だが、さまざまな資料から郡を代表する大地主であったことは間違いない。英二氏が優れているのは、私財を惜しみなく地域発展のために投じた点だ。家の繁栄は地域経済の発展なくしてはありえない。英二氏の取り組みからうかがい知ることができる。
 今回は青樹家を、愛知県を代表する大地主として取り上げたが、それは英二氏の地域発展に対する貢献度の大きさも加味してのものだ。実際に所有していた土地の広さだけを考えれば、青樹家よりも大規模な大地主は他にもたくさんいた。例えば林董一氏の「名古屋商人史」には1882年(明治15年)時の土地所有者の上位10名を、1位=神野金之助 2位=関戸守彦 3位=伊藤次郎左衛門 4位=伊藤忠左衛門 5位=岡谷惣助 6位=武山勘七 7位=中村次郎太 8位=小出庄兵衛 9位=加藤彦兵衛 10位=岡田徳右衛門と記している。10名の土地の合計は22.23平方キロメートルで、現在の名古屋市太白区(21平方キロメートル)、尾張旭市(21平方キロメートル)に相当するという。当時の地主の規模が、今からでは想像できないほど桁外れだったことがよく分かる。
 本稿では、今後も地方の大地主を取り上げていく。