真説 賃貸業界史 第46回「70年前に生まれた賃貸住宅『文化住宅』の歴史を紐解く」|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2022.01.31

真説 賃貸業界史 第46回「70年前に生まれた賃貸住宅『文化住宅』の歴史を紐解く」

真説 賃貸業界史 第46回「70年前に生まれた賃貸住宅『文化住宅』の歴史を紐解く」
当時としては珍しいメゾネットでキッチン・トイレ付き

 「文化住宅」と呼ばれる建物をご存知でしょうか。1950年代~60年代にかけて、近畿地方全域で建てられた集合住宅の一種で、今も多くの建物が各地に残っています。最近では、趣ある雰囲気を活かすため、一棟丸ごとリノベーションして賃貸する方が増えています。今回は、この近畿地方ならではの文化住宅の歴史を紐解いて見ました。

「昔の大阪には、市内・市外を問わず、どこにでも文化住宅が建ち並んでいた。それが今はすっかり珍しくなってしまった。私が住む堺市にも、以前はたくさんの文化住宅が軒を連ねていたがだいぶ少なくなった。私が所有する物件の周りも、みんなマンションに建て替わってしまった」

こう話すのは、30年前に父から、大阪府堺市にある文化住宅2棟を相続した柏原真知子オーナー(仮名)です。
 柏原さんの言葉の通り、今を遡ること60~70年前、つまり高度経済成長期の頃には、大阪府の全域にたくさんの文化住宅が建てられました。ある研究資料によれば、1950年代前半に大阪市内で誕生し、そこから徐々に周辺地域に広がり、1950年代半ばに定着したとされます。特に多かったのは、東大阪市や寝屋川市、守口市などだそうです。当時はとしては珍しい、洋風生活を採り入れたデザインが話題となり、とても人気があったそうです。しかし、時代が進むにつれ、人々の関心は次第にアパートやマンションに移り、文化住宅は旧耐震時代の建物ということもあり、街から少しずつ姿を消していきました。神戸・阪神エリアでは1995年に阪神・淡路大震災が発生し、多くの文化住宅が倒壊しました。今でも、あちこちに点在してはいますが、最盛期の頃の華やかな雰囲気は微塵も感じられず、どちらかと言えば“ボロ家”という印象を受けます。
 では、文化住宅とそれまでの集合住宅とどこが違ったのでしょうか?一番の違いは、当時、主流だった長屋や下宿屋度などの集合住宅が、トイレや台所を共用スペースとしていたのに対し、文化住宅はこれらの設備を各住戸に独立して設置していた点でした。また、各住戸を縦割りにするメゾネットタイプであったことも、大きな特徴でした。これら洋風建築の影響を受けた造りが、当時の最先端であり、「文化的」であったことから、これらの建物を総じて「文化住宅」と呼ぶようになったそうです。もっとも、「文化住宅」と呼ばれていた建物すべてが、メゾネットになっていたかというと実際はそうではなかったようです。当時は、上下階が独立した住戸の2階建てのアパートも、同じ木造の建物だったことから、いつの間にか「文化住宅」として一緒くたにされるようになっていました。また、「文化住宅」とは呼ばれていなかったものの、近畿以外の地域でも、メゾネットアパートは古くから建てられていました。「文化住宅」というのはあくまでも、メゾネットタイプの木造アパートに対する近畿地方独特の呼び方に過ぎませんでした。
 今残る当時のままの文化住宅は、造りが古いため、賃貸物件としての人気はかなり低いです。場所にもよりますが、賃料1万円、2万円も珍しくありません。何十年も前から住んでいる入居者も多く、設備類の更新が何十年間もされていないものや、家賃が入居当初からほとんど変わっていないものもあります。中にはトイレが汲み取り式の物件もあります。
 ただ、郊外に残された文化住宅が老朽化していくのに対し、都心部の物件はリノベーションして再利用されるケースが増えています。単に賃貸住宅として再生されるもあれば、1階部分を店舗にして、上を住戸にするパターンもあります。まとまった数の文化住宅が残っている場合は、地域一帯で再生に取り組んでいたりもします。もともと趣がある建物なので、きちんと手入れさえすれば、文化的な価値が上がり、不人気どころか人気物件にすらなりえる可能性を秘めています。
 再開発や相続などを機に、街の中からどんどん姿を消していっている文化住宅。日本の賃貸住宅の歴史を後世に伝えるためにも、少しでも多くの建物が再生されることを願うばかりです。