鉄山経営の田部家は、かつて島根県飯石郡のほとんどを領有
戦前の大地主は終戦後の農地改革で大半の土地を失う
前号では、日本の歴史に残る地主の話として、「東北三大地主」と呼ばれた齋藤家・池田家・本間家について紹介した。今回も引き続き、江戸末期から明治、大正にかけて財をなした地方の大地主についてまとめた。
最初に紹介するのは、島根県を代表する名家、田部家だ。そのルーツは今から800年前の源頼朝の時代にまで遡る。当時、備後の国に周藤通資という武士がいて、田部氏はその家臣だったとされる。それから200年後の1460年代、田辺(田部)彦左衛門が島根県で鉄山業を興して定着。現在の田部家は、この彦左衛門を初代とする。
田部家は製鉄に必要な木炭や砂鉄を保持するために、現在の雲南市界隈に広大な山林を所有。最盛期には山林2万5000ヘクタール、田地1000ヘクタール、小作1000戸、牛馬1000頭を有していた。ちなみに2万5000ヘクタールは、東京ドーム(4.6ヘクタール)で5435個分に相当する。まさに規格外の広さで、一時期は島根県飯石郡の大部分が田部家の領地だったと言われる。
田部家はその後、山陰地方の近代化に大きく貢献。23代長右衛門氏は島根県知事を務め、一方で島根新聞社を設立。続く24代長右衛門氏は島根放送(現山陰中央テレビジョン放送)を設立し、地元経済界のリーダーとして地域発展に大きく貢献した。
新潟県にも、かつて広大な土地を有していた大地主が存在した。銘酒「王紋」で知られる市島酒造を営む市島家の本家もその一つだ。市島本家は1598年に、新発田の藩主に任ぜられた溝口家当主・溝口秀勝に随伴する形で、加賀大聖寺から新発田の地に移住。そこで薬種問屋を営む傍ら、酒造や金融、回船業など、さまざまな事業を手掛けて富を蓄える一方で、積極的に新田開発を行って所有地を広げていった。最盛期には、約4800ヘクタールの田畑山林を有していたとされる。本家の邸宅「市島邸」は現在、新潟県指定文化財として観光客に開放されている。
初代文吉に始まる伊藤家も、新潟を代表する大地主の一つだ。伊藤文吉氏は1756年、20歳で約1万3000㎡(東京ドーム1個分)の土地を与えられて、百姓として分家。その後、紺屋の娘との婚姻を機に、商売を広げ、雑穀・質屋・倉庫業を営んで豪商として成長。明治に入って、7代文吉氏の頃には、1385ヘクタール(東京ドーム約300個分)の土地を有し、新潟・越後地方を代表する大地主へと成長を遂げた。
第二次大戦後、伊藤家の財産は7代文吉氏によって創設された博物館にすべて寄付され、大地主としての伊藤家の歴史は幕を閉じた。250年余りの伊藤家の歴史は、遺構を受け継いだ北方文化博物館で今も見ることができる。
一部例外はあるかもしれないが、太平洋戦争以前に財を成した大地主は、終戦後にGHQによって行われた農地改革によって、ほとんどすべての土地を手放し、地主としての歴史を終えた。そのため、大地主だった家系が現在もそのまま大地主である例は極めて少ない。前号で紹介した東北三大地主の齋藤家・池田家・本間家にしろ、今回紹介した田部家、市川家、伊藤家にしろ、かつて所有していた広大な土地の多くを、今は有していない。日本における大地主の歴史は、第二次世界大戦の終結をもって、いったん終了したと考えても良いのではないだろうか。
戦前の大地主は終戦後の農地改革で大半の土地を失う
前号では、日本の歴史に残る地主の話として、「東北三大地主」と呼ばれた齋藤家・池田家・本間家について紹介した。今回も引き続き、江戸末期から明治、大正にかけて財をなした地方の大地主についてまとめた。
最初に紹介するのは、島根県を代表する名家、田部家だ。そのルーツは今から800年前の源頼朝の時代にまで遡る。当時、備後の国に周藤通資という武士がいて、田部氏はその家臣だったとされる。それから200年後の1460年代、田辺(田部)彦左衛門が島根県で鉄山業を興して定着。現在の田部家は、この彦左衛門を初代とする。
田部家は製鉄に必要な木炭や砂鉄を保持するために、現在の雲南市界隈に広大な山林を所有。最盛期には山林2万5000ヘクタール、田地1000ヘクタール、小作1000戸、牛馬1000頭を有していた。ちなみに2万5000ヘクタールは、東京ドーム(4.6ヘクタール)で5435個分に相当する。まさに規格外の広さで、一時期は島根県飯石郡の大部分が田部家の領地だったと言われる。
田部家はその後、山陰地方の近代化に大きく貢献。23代長右衛門氏は島根県知事を務め、一方で島根新聞社を設立。続く24代長右衛門氏は島根放送(現山陰中央テレビジョン放送)を設立し、地元経済界のリーダーとして地域発展に大きく貢献した。
新潟県にも、かつて広大な土地を有していた大地主が存在した。銘酒「王紋」で知られる市島酒造を営む市島家の本家もその一つだ。市島本家は1598年に、新発田の藩主に任ぜられた溝口家当主・溝口秀勝に随伴する形で、加賀大聖寺から新発田の地に移住。そこで薬種問屋を営む傍ら、酒造や金融、回船業など、さまざまな事業を手掛けて富を蓄える一方で、積極的に新田開発を行って所有地を広げていった。最盛期には、約4800ヘクタールの田畑山林を有していたとされる。本家の邸宅「市島邸」は現在、新潟県指定文化財として観光客に開放されている。
初代文吉に始まる伊藤家も、新潟を代表する大地主の一つだ。伊藤文吉氏は1756年、20歳で約1万3000㎡(東京ドーム1個分)の土地を与えられて、百姓として分家。その後、紺屋の娘との婚姻を機に、商売を広げ、雑穀・質屋・倉庫業を営んで豪商として成長。明治に入って、7代文吉氏の頃には、1385ヘクタール(東京ドーム約300個分)の土地を有し、新潟・越後地方を代表する大地主へと成長を遂げた。
第二次大戦後、伊藤家の財産は7代文吉氏によって創設された博物館にすべて寄付され、大地主としての伊藤家の歴史は幕を閉じた。250年余りの伊藤家の歴史は、遺構を受け継いだ北方文化博物館で今も見ることができる。
一部例外はあるかもしれないが、太平洋戦争以前に財を成した大地主は、終戦後にGHQによって行われた農地改革によって、ほとんどすべての土地を手放し、地主としての歴史を終えた。そのため、大地主だった家系が現在もそのまま大地主である例は極めて少ない。前号で紹介した東北三大地主の齋藤家・池田家・本間家にしろ、今回紹介した田部家、市川家、伊藤家にしろ、かつて所有していた広大な土地の多くを、今は有していない。日本における大地主の歴史は、第二次世界大戦の終結をもって、いったん終了したと考えても良いのではないだろうか。