「東北三大地主」に並ぶ名家
本連載ではこれまで、かつて存在した地方の大地主を紹介してきた。今回は青森県を代表する大地主、平山家について紹介する。
東北地方の大地主といえば、「東北三大地主」と呼ばれた宮城県石巻市の齋藤家、秋田県大仙市の池田家、山形県酒田市の本間家が有名だ。秋田県の本郷家を取り上げたこともある。いずれも何代かにわたり広大な農地を所有して繁栄したが、戦後の農地改革を機に大部分の土地をほとんどタダ同然で手放し、大地主としての役割を終えた。その足跡は、国の名勝に指定されている各家の邸宅や庭園から伺い知ることができる。詳細は本紙バックナンバーをご確認頂きたい。
さて、今回は改めて青森県にスポットを当ててみたい。同地の大地主としては、以前、津軽半島を地盤に活躍した佐々木家を取り上げた。今回は同じく津軽地方を地盤にした平山家を紹介する。
平山家が同地に居を構えたのは、湊村が開かれた1645年頃と伝えられる。開村以来、肝入役の他、代々、藩の広田組代官所の手代、堰奉行、堤奉行土などを務めたが、主業は農業だったようだ。
同家出身の人物で最も有名なのは平山浪三郎氏だ。同氏は1862年12月(文久2年)、助六氏の長男として、陸奥国津軽郡五所川原村(現・青森県五所川原市)で誕生した。資料によると助六氏の代にはすでに大地主として認知されていた。詳細は不明だが、助六氏あるいは浪三郎氏の祖父、曾祖父の代から続く地主の家系だったと推測される。
さて浪三郎氏が家督を継いだのは1903年、41歳の頃だ。当時としては遅い相続だったようだ。家業は農業が中心で、広大な土地を有していたことから多くの小作人を抱えていたと推測される。『大正人名辞典』によると、同家の所有地していた土地は田地四百町歩、山林二百町歩と記されている。百町歩は約99万㎡に相当するため、田地、山林合わせて600万㎡の不動産を所有していたことになる。東京ドームで換算すると約130個分に相当する広さだ。これだけ広大な土地を所有していたのなら、“津軽地方の一大地主”と呼ばれていたことも納得できる。ちなみに「貨金、現金等も含めた総資産は百万円を超える」と言われていたようで、これが事実だとすると現在価値で200億円の大資産家だったということになる。
さて、青森県の多額納税者としても名を残す浪三郎氏は、農業を営む傍ら、補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、1917年1月から翌年9月まで同職を務めた。同氏に限らず、多額納税者が議員になることは当時としてはそれほど珍しいことではなく、本紙が過去に取り上げた資産家の中にも数名いた。
浪三郎氏は事業家としても辣腕を振るった。五所川原銀行の頭取をはじめ、現在のJR東日本五能線の一部となった陸奥鉄道や青森県農工銀行の役員などを務めた。
浪三郎氏の後は長男の又三郎氏が引き継いだ。同氏も同県の多額納税者として名が残っており、青森商業銀行の取締役を務めた。
同家の繁栄ぶりを伝えるものとしては、旧平山家住宅が遺されている。同邸宅は藩主から特に許されて1830年に建てられたもので、主屋は桁行が約33m、梁間が約10.5mも当時としてはかなり大きな建物だ。18世紀後半の津軽地方の上層農民の生活を今に伝える貴重な文化財だ。昭和53年には母屋と表門が国の重要文化財に指定された。一般公開されているため、興味のある方は一度足を運んでみると良いだろう。
平山家は旧平山家の事実上の最後の持ち主、為之助氏を最後に、表立った活動はない。もちろん、あれだけ隆盛を極めた一族であるから、今もその血は脈々と受け継がれているはずだ。
本紙では今後も歴史の名を残す地方の大地主を取り上げていく。次号にもご期待頂きたい。
本連載ではこれまで、かつて存在した地方の大地主を紹介してきた。今回は青森県を代表する大地主、平山家について紹介する。
東北地方の大地主といえば、「東北三大地主」と呼ばれた宮城県石巻市の齋藤家、秋田県大仙市の池田家、山形県酒田市の本間家が有名だ。秋田県の本郷家を取り上げたこともある。いずれも何代かにわたり広大な農地を所有して繁栄したが、戦後の農地改革を機に大部分の土地をほとんどタダ同然で手放し、大地主としての役割を終えた。その足跡は、国の名勝に指定されている各家の邸宅や庭園から伺い知ることができる。詳細は本紙バックナンバーをご確認頂きたい。
さて、今回は改めて青森県にスポットを当ててみたい。同地の大地主としては、以前、津軽半島を地盤に活躍した佐々木家を取り上げた。今回は同じく津軽地方を地盤にした平山家を紹介する。
平山家が同地に居を構えたのは、湊村が開かれた1645年頃と伝えられる。開村以来、肝入役の他、代々、藩の広田組代官所の手代、堰奉行、堤奉行土などを務めたが、主業は農業だったようだ。
同家出身の人物で最も有名なのは平山浪三郎氏だ。同氏は1862年12月(文久2年)、助六氏の長男として、陸奥国津軽郡五所川原村(現・青森県五所川原市)で誕生した。資料によると助六氏の代にはすでに大地主として認知されていた。詳細は不明だが、助六氏あるいは浪三郎氏の祖父、曾祖父の代から続く地主の家系だったと推測される。
さて浪三郎氏が家督を継いだのは1903年、41歳の頃だ。当時としては遅い相続だったようだ。家業は農業が中心で、広大な土地を有していたことから多くの小作人を抱えていたと推測される。『大正人名辞典』によると、同家の所有地していた土地は田地四百町歩、山林二百町歩と記されている。百町歩は約99万㎡に相当するため、田地、山林合わせて600万㎡の不動産を所有していたことになる。東京ドームで換算すると約130個分に相当する広さだ。これだけ広大な土地を所有していたのなら、“津軽地方の一大地主”と呼ばれていたことも納得できる。ちなみに「貨金、現金等も含めた総資産は百万円を超える」と言われていたようで、これが事実だとすると現在価値で200億円の大資産家だったということになる。
さて、青森県の多額納税者としても名を残す浪三郎氏は、農業を営む傍ら、補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、1917年1月から翌年9月まで同職を務めた。同氏に限らず、多額納税者が議員になることは当時としてはそれほど珍しいことではなく、本紙が過去に取り上げた資産家の中にも数名いた。
浪三郎氏は事業家としても辣腕を振るった。五所川原銀行の頭取をはじめ、現在のJR東日本五能線の一部となった陸奥鉄道や青森県農工銀行の役員などを務めた。
浪三郎氏の後は長男の又三郎氏が引き継いだ。同氏も同県の多額納税者として名が残っており、青森商業銀行の取締役を務めた。
同家の繁栄ぶりを伝えるものとしては、旧平山家住宅が遺されている。同邸宅は藩主から特に許されて1830年に建てられたもので、主屋は桁行が約33m、梁間が約10.5mも当時としてはかなり大きな建物だ。18世紀後半の津軽地方の上層農民の生活を今に伝える貴重な文化財だ。昭和53年には母屋と表門が国の重要文化財に指定された。一般公開されているため、興味のある方は一度足を運んでみると良いだろう。
平山家は旧平山家の事実上の最後の持ち主、為之助氏を最後に、表立った活動はない。もちろん、あれだけ隆盛を極めた一族であるから、今もその血は脈々と受け継がれているはずだ。
本紙では今後も歴史の名を残す地方の大地主を取り上げていく。次号にもご期待頂きたい。