県一の納税者を輩出した佐々木家
戦前の日本には、数多くの大地主が存在した。その多くは、戦後の農地改革によって所有地のほとんどをタダ同然で手放さざるをえなかったため、今も地主として残っている家は限られる。今回は青森県北部の地主の歴史を紐解く。
青森県の津軽半島。本州の最北部に位置するこの地にも、かつて多くの地主が存在したという。中にはかなり大きな規模の地主もおり、歴史に名を残す人物もいる。その一人が佐々木喜太郎氏だ。
佐々木喜太郎氏は1836年(天保7年)に青森県で生まれた。家は裕福で、代々「布屋三之助」を名乗り、屋号を「布三」としていたが、喜太郎氏の代に「佐々木」姓を名乗るようになった。酒造業をはじめ、米穀取引、小国・今泉の鉄山経営などを営んで財を築き、土地投資も積極的に行ったという。
喜多郎氏が土地投資にのめり込むようになったのは、明治維新後に行われた地租改正がきっかけだった。これにより土地の売買が自由化されたことで、農地を担保にしてお金を借りたものの、返済ができずに小作人に没落する農家が続出。喜多郎氏は売りに出た土地を買って農地の集積を行い、やがて地域を代表する大地主へと成長した。ある資料には、喜多郎氏は明治前半に青森県一の納税者になったことが記されている。1890年出版の「帝国議会議員選挙者名鑑」によると、当時の直接国税総納額は「2262円2銭」だったとある。明治時代の1円は今の2万円くらいに相当するので、納税額は4500万円以上だったと推測される。
喜太郎氏は1890年(明治23年)に亡くなった。跡を継いだ2代目喜太郎氏と3代目喜太郎氏も、それぞれ1906年と1923年に亡くなった。
佐々木家を語る上でもう一人忘れてはいけない人物がいる。それは、喜太郎氏の五女・たけと結婚し、佐々木家の婿養子となった嘉太郎氏だ。嘉太郎氏は1841年(天保12年)に、陸奥国津軽郡金木村(現青森県五所川原市)の百姓、中村半治郎氏の長男として生まれた。12歳のときに呉服商を営んでいた佐々木家に丁稚奉公として入り、喜多郎氏に認められて婿養子となった。
本家は義兄が継ぐため、嘉太郎氏は1867年に分家。木綿と雑貨を扱う商店「又古」を興し、成功を収めた。一代にして巨万の富を築き、1889年以降、北津軽郡会議員、県税調査委員等を務めた。1895年には津軽鉄道の設立に参画。さらに1897年には五所川原銀行を創業した。1904年には多額納税者として貴族院議員に選出された。架橋工事や鉄道施設工事などに積極的に参加し、地域の発展に大いに貢献したという。ちなみに1890年の「帝国議会議員選挙者名鑑」によると、納税額は「2193円96銭5厘」だった。分家にもかかわらず、義父・喜太郎氏並の資産を築いたことが伺い知れる。
一代で大きな成功を収めた嘉太郎氏は明治29年、五所川原市本町の約1万2000坪の広大な敷地に、10年もの歳月をかけて「布嘉御殿」という巨大な邸宅を建築した。当時、その規模は東北一を誇ったとされる。建坪は約900坪、金箔を張り詰めた「金の間」「銀の間」を備え、総工費は38万円(現在の貨幣価値で約76億円)だったという。残念ながら、昭和19年の大火によってそのほとんどは焼け落ちてしまい、現在はレンガ塀のみが残されている。
ちなみに同じ五所川原市には津島家という大地主の家も存在した。こちらも後に「斜陽館」と呼ばれる大邸宅を建築した。「斜陽館」は文豪・太宰治の生家としても有名で、多くの文学ファンの観光スポットとなっている。
今回は本州最北部に位置する青森県津軽半島にスポットを当ててみた。普段、あまり話題にのぼることのない地域だが、調べてみると、かつては意外にも多くの大地主を輩出していた。今後も地方を中心に大地主の歴史について紹介していきたいと思う。
戦前の日本には、数多くの大地主が存在した。その多くは、戦後の農地改革によって所有地のほとんどをタダ同然で手放さざるをえなかったため、今も地主として残っている家は限られる。今回は青森県北部の地主の歴史を紐解く。
青森県の津軽半島。本州の最北部に位置するこの地にも、かつて多くの地主が存在したという。中にはかなり大きな規模の地主もおり、歴史に名を残す人物もいる。その一人が佐々木喜太郎氏だ。
佐々木喜太郎氏は1836年(天保7年)に青森県で生まれた。家は裕福で、代々「布屋三之助」を名乗り、屋号を「布三」としていたが、喜太郎氏の代に「佐々木」姓を名乗るようになった。酒造業をはじめ、米穀取引、小国・今泉の鉄山経営などを営んで財を築き、土地投資も積極的に行ったという。
喜多郎氏が土地投資にのめり込むようになったのは、明治維新後に行われた地租改正がきっかけだった。これにより土地の売買が自由化されたことで、農地を担保にしてお金を借りたものの、返済ができずに小作人に没落する農家が続出。喜多郎氏は売りに出た土地を買って農地の集積を行い、やがて地域を代表する大地主へと成長した。ある資料には、喜多郎氏は明治前半に青森県一の納税者になったことが記されている。1890年出版の「帝国議会議員選挙者名鑑」によると、当時の直接国税総納額は「2262円2銭」だったとある。明治時代の1円は今の2万円くらいに相当するので、納税額は4500万円以上だったと推測される。
喜太郎氏は1890年(明治23年)に亡くなった。跡を継いだ2代目喜太郎氏と3代目喜太郎氏も、それぞれ1906年と1923年に亡くなった。
佐々木家を語る上でもう一人忘れてはいけない人物がいる。それは、喜太郎氏の五女・たけと結婚し、佐々木家の婿養子となった嘉太郎氏だ。嘉太郎氏は1841年(天保12年)に、陸奥国津軽郡金木村(現青森県五所川原市)の百姓、中村半治郎氏の長男として生まれた。12歳のときに呉服商を営んでいた佐々木家に丁稚奉公として入り、喜多郎氏に認められて婿養子となった。
本家は義兄が継ぐため、嘉太郎氏は1867年に分家。木綿と雑貨を扱う商店「又古」を興し、成功を収めた。一代にして巨万の富を築き、1889年以降、北津軽郡会議員、県税調査委員等を務めた。1895年には津軽鉄道の設立に参画。さらに1897年には五所川原銀行を創業した。1904年には多額納税者として貴族院議員に選出された。架橋工事や鉄道施設工事などに積極的に参加し、地域の発展に大いに貢献したという。ちなみに1890年の「帝国議会議員選挙者名鑑」によると、納税額は「2193円96銭5厘」だった。分家にもかかわらず、義父・喜太郎氏並の資産を築いたことが伺い知れる。
一代で大きな成功を収めた嘉太郎氏は明治29年、五所川原市本町の約1万2000坪の広大な敷地に、10年もの歳月をかけて「布嘉御殿」という巨大な邸宅を建築した。当時、その規模は東北一を誇ったとされる。建坪は約900坪、金箔を張り詰めた「金の間」「銀の間」を備え、総工費は38万円(現在の貨幣価値で約76億円)だったという。残念ながら、昭和19年の大火によってそのほとんどは焼け落ちてしまい、現在はレンガ塀のみが残されている。
ちなみに同じ五所川原市には津島家という大地主の家も存在した。こちらも後に「斜陽館」と呼ばれる大邸宅を建築した。「斜陽館」は文豪・太宰治の生家としても有名で、多くの文学ファンの観光スポットとなっている。
今回は本州最北部に位置する青森県津軽半島にスポットを当ててみた。普段、あまり話題にのぼることのない地域だが、調べてみると、かつては意外にも多くの大地主を輩出していた。今後も地方を中心に大地主の歴史について紹介していきたいと思う。