真説賃貸業界史 第53回「静岡県の水田地帯を買い進めた松永家」|コラム|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2023.02.13

真説賃貸業界史 第53回「静岡県の水田地帯を買い進めた松永家」

真説賃貸業界史 第53回「静岡県の水田地帯を買い進めた松永家」
最盛期には40万坪を超える土地を所有

 本稿ではこれまで、明治から昭和初期に実在した各地の大地主およびその一族について取り上げてきた。今回は明治期に静岡県内有数の大地主として知られた松永家についてまとめた。

 松永家の由緒を紐解く資料としては、昭和になってから作成された「松永家記録」というものがあるそうだ。こだれによると松永家はもともと甲斐の国の出とされている。詳しい年代は不明だが、静岡後に移り住んだ一世五左衛門氏が明暦元年(1655年)に没していることから、移住はおそらく戦国時代末期から江戸時代初期の頃だと推測される。
 松永家が大きく飛躍したのは“中興の祖”とされる六世好時氏が党首を務めていた頃で、土地の集積を進めて大きな財を成した。江戸時代の終わりには、富士郡の旗本領の取締役を命じられるなど、かなりの影響力をもっていたようだ。
 明治時代に入ると、戸長や郡会議員などの公職を歴任する傍ら、小作米の販売や金貸し、養蚕など、事業の多角化を推進。一方で地域の発展にも取り組み、鉄道の停車場設置や製紙工場の誘致などに奔走し、さらに小学校の建設資金を提供したそうだ。
 松永家は一体どのくらいの土地を有していたのか。別の資料によると、同家の土地は「加島五千石」と謳われた水田地帯が中心と中心に、周辺地域にも及んでいたとされる。広さにして一三四四石余にもなったそうだ。現代の換算では1石が300坪に相当することから、約40万坪だと考えられる。東京ドームの建物で考えたら28個分くらいになる。言うまでもなく、とんでもない広大な土地を有していたことになる。これはもう、静岡随一の大地主だったと言っても過言ではないだろう。
 松永家は作った米を売って大きな財を成した。資料によると、同家から米を買っていたのは明治時代に県内に存在していた田中家、時田家、鈴木家、大村家といった造酒屋で、このことから松永家は間接的ではあったものの、静岡県の酒造業の発展に大きく寄与したと考えられる。実際、静岡県は今も、「磯自慢」をはじめとする数々の銘酒を製造している日本有数の造酒地として知られている。
 当時の納税額からも同家の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。例えば貴族院議員を務めた九世安彦氏が、明治23年の第一回選挙時の収めた納税額は2457円83銭で、これは県内一の最高納税額だった。当時、2000円を超える納税者は、全国でも数えるほどしかいなかったという。また、第二回の選挙が行われた明治30年にも、2639円43銭4厘を納め、県内最高納税者となっている。
 さて、時代が明治から大正に代ると、小作地経営を巡る環境は一変する。全国で小作争議や米騒動が頻発し、それまで絶対とされていた地主の力は弱体化する。だが、松永家に限っては、貧民救済の施米を行うなど、小作者側に立った施策を行うなど、細心の注意を払った経営を行ったため、そうした混乱とは無縁だった。
 これだけの成功を収めた松永家であるが、実はその後に関して記された資料はほとんど残されていない。同家の遺物としては、富士市内に「旧松永家住宅」という、旗本領の取締役を任じられた際に、敷地内に建築された屋敷がある。建てられたのは安政4年(1857年)で、「静岡県明治銅版画風景集」では主屋150坪、部屋数は20余りと紹介されている。明治元年(1868年)に行われた明治天皇の御東行の際には、休息所として利用された。平成12年(2000年)には、富士市指定有形文化財に指定された。
 江戸末期から明治、大正にかけては、全国各地に大規模な地主が存在した。しかし、動乱期の混乱や戦後の農地改革などによって、その多くは消滅、あるいは土地を手放して大地主としての姿を現代に留めていない。今後も機会があれば、歴史に埋もれた地方の大地主を取り上げていきたい。