日銀誕生の2カ月後に銀行が設立される繁栄ぶり
これまで本連載では、数回にわたり日本の歴史に名を残す大地主を取り上げてきた。今回は九州・福岡県を代表する大地主、松田家についてまとめた。
-福岡県うきは市-、県外の人にはあまり馴染みのない同市の筑後吉井という地域の一角に、ひときわ目立つ白壁の大きな屋敷が建っている。その名を「居蔵の館」という。建てられたのは明治時代末期で、大正時代に改修された。
現在はうきは市の観光施設の一つとして一般公開されている同屋敷は、もともとは地域一の資産家、松田家の邸宅として建てられたものだ。戦後、しばらく空き家として放置されていたが、吉井町が譲渡を受けて復元した。松田家は製蝋業で栄えた一族の分家で、本家とともに銀行経営にも携わっていたそうだ。
今の感覚からはピンとこないかも知れないが、近代化以前、製蝋は重要な産業の一つだった。特に同地区を含む築後地方一帯で生産されていた「築後木蝋」は、産額・品質ともに国内一と高い評価を受けていたとされる。製蝋業は松田家及び吉井地区一帯に繁栄をもたらし、同地区に「吉井銀」と呼ばれる蓄財を生み出した。その規模は当時の地方都市としては桁外れだったようで、地方金融にも大きな影響を与えたようだ。1882年、日本銀行が設立されたわずか2カ月後に、吉井銀行が誕生した事実からも、当時の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。ちなみに吉井銀行は、昭和4年まで営業を続けた後、生吉銀行、筑邦銀行を経て、現在は福岡銀行に後継されている。
さて、話を松田家に戻す。松田家の中でもっとも有名な人物は松田大策氏だ。同氏は1879年に甚吉氏の長男として生を受け、1892年、23歳で家督を相続した。農業を営む一方で、久留米市の老舗酒造の一つ、池亀酒造の取締役を務めたこともあったという。福岡県多額納税者として名を残している。
同じ吉井町にある碓井家も製蝋業で財を成した大地主だ。築100年を超える同家の邸宅は、現在は2棟の宿泊棟からなる旅館「みなも」として利用されている。
うきは市を代表する大地主は他にもいる。代々作り酒屋を営んでいた菊竹家だ。庄屋を務めたこともある名家で、最盛期にはかなり広大な農地を所有していたとされる。
菊竹家で特に名を知られているのは、博之氏・六鼓氏(本名:淳)だ。博之氏は若い頃から政治に関心を持ち、1889年には町村制施行に伴い誕生した福富村初代村長に就任。地域の発展に尽力し、植林事業や小中学校の整備等に多大な貢献をした。しかし、政治活動に私財を投入し続けたことで徐々に資金繰りが悪化し、家業であった造り酒屋を売却。1899年に再起をかけて始めた乳牛飼育事業も失敗し、財産のほとんどを失った。資産家としての菊竹家の歴史はこの時点で幕を閉じた。弟の淳氏はジャーナリストの道を進み、戦前日本で圧力に屈することなく軍部批判を行った反骨の新聞人として、今日まで高く評価されている。
これまで本連載では、数回にわたり日本の歴史に名を残す大地主を取り上げてきた。今回は九州・福岡県を代表する大地主、松田家についてまとめた。
-福岡県うきは市-、県外の人にはあまり馴染みのない同市の筑後吉井という地域の一角に、ひときわ目立つ白壁の大きな屋敷が建っている。その名を「居蔵の館」という。建てられたのは明治時代末期で、大正時代に改修された。
現在はうきは市の観光施設の一つとして一般公開されている同屋敷は、もともとは地域一の資産家、松田家の邸宅として建てられたものだ。戦後、しばらく空き家として放置されていたが、吉井町が譲渡を受けて復元した。松田家は製蝋業で栄えた一族の分家で、本家とともに銀行経営にも携わっていたそうだ。
今の感覚からはピンとこないかも知れないが、近代化以前、製蝋は重要な産業の一つだった。特に同地区を含む築後地方一帯で生産されていた「築後木蝋」は、産額・品質ともに国内一と高い評価を受けていたとされる。製蝋業は松田家及び吉井地区一帯に繁栄をもたらし、同地区に「吉井銀」と呼ばれる蓄財を生み出した。その規模は当時の地方都市としては桁外れだったようで、地方金融にも大きな影響を与えたようだ。1882年、日本銀行が設立されたわずか2カ月後に、吉井銀行が誕生した事実からも、当時の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。ちなみに吉井銀行は、昭和4年まで営業を続けた後、生吉銀行、筑邦銀行を経て、現在は福岡銀行に後継されている。
さて、話を松田家に戻す。松田家の中でもっとも有名な人物は松田大策氏だ。同氏は1879年に甚吉氏の長男として生を受け、1892年、23歳で家督を相続した。農業を営む一方で、久留米市の老舗酒造の一つ、池亀酒造の取締役を務めたこともあったという。福岡県多額納税者として名を残している。
同じ吉井町にある碓井家も製蝋業で財を成した大地主だ。築100年を超える同家の邸宅は、現在は2棟の宿泊棟からなる旅館「みなも」として利用されている。
うきは市を代表する大地主は他にもいる。代々作り酒屋を営んでいた菊竹家だ。庄屋を務めたこともある名家で、最盛期にはかなり広大な農地を所有していたとされる。
菊竹家で特に名を知られているのは、博之氏・六鼓氏(本名:淳)だ。博之氏は若い頃から政治に関心を持ち、1889年には町村制施行に伴い誕生した福富村初代村長に就任。地域の発展に尽力し、植林事業や小中学校の整備等に多大な貢献をした。しかし、政治活動に私財を投入し続けたことで徐々に資金繰りが悪化し、家業であった造り酒屋を売却。1899年に再起をかけて始めた乳牛飼育事業も失敗し、財産のほとんどを失った。資産家としての菊竹家の歴史はこの時点で幕を閉じた。弟の淳氏はジャーナリストの道を進み、戦前日本で圧力に屈することなく軍部批判を行った反骨の新聞人として、今日まで高く評価されている。